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比べるとは?/ キャッシュワン

[ 261] エロゲを小説と比べるな。 - Something Orange
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071203/p4

この場合のエロゲとは、いわゆるノベルゲーム(画面全体に文章が表示されるゲーム)を含むアドベンチャーゲーム一般を指す。
ネットには、エロゲの文章部分を抜き出し、良いの悪いの上手いの下手だのと語るひとが少なくない。しかし、ぼくなどはそれ全部まとめて無意味じゃね、と思ってしまう。
あたりまえのことだけれど、エロゲは小説ではない。だから、小説を評価する基準で評価することは出来ない。
もちろん、エロゲの文章にも、エロゲの文章なりの巧拙はあるだろう。しかし、その基準は小説の基準と同一ではあり得ない。
エロゲの文章は、あくまでも映像や音楽、またゲーム要素によって補完されることを前提としたものだからである。漫画から台詞だけを抜き出して巧拙を語ることが無意味であるように、エロゲから文章だけを抜き出して良し悪しを問うことも無意味だ。
エロゲの文章は、あくまで、その作品のなかでほかの要素と合わさったときどのような効果をあげているか、その一点で評価されなければならない。
もし、「絵や音楽がなくても意味が通じる文章」だけが良い文章だと考えられているのなら、それはやはり、文学コンプレックスでしかないと思う。
もちろん、小説の文章は、少数の例外はあるにしても、それ単体で完結することを目指す。挿絵で補完されなければ意味が通じないような文章は、「小説では」良い文章とはいえない。
瀬戸口さんの文章は、小説的な意味で、非常に完成度が高い。たぶん、いくらか修正を加えれば、そのまま小説として通用してしまうだろう。
しかし、こういう文章こそが、エロゲにとって唯一の正しい文章なのかといえば、そうでもないと思うんだよね。
『らくえん』の文章は、文章だけで完結することを目指していない。あくまで映像があり、そして音声があって初めて完結する文章なのである。
逆にいえば、瀬戸口廉也のような才能は、こうしたシステムでは発揮しきれないかもしれない。文章がシステムを要求するのか、システムが文章を規定するのか、たぶん、その両方だろう。
『らくえん』では、台詞をあっさりと「〜(略)」と表現してしまい、文章上で台詞が終わったあとも音声ではしゃべり続けるという演出が用いられている。
このような演出は、もちろん、小説では不可能なものであり、エロゲと小説の文章を同列において優劣を争っても意味がないことが改めてわかる。
エロゲは文学にはなり得ないが、別に文学より劣るわけではない。単に異なるジャンルの表現であるに過ぎない。
戯曲よりもシナリオと言うべき。もっと戯曲を研鑚してから文章を書きましょう。シェークスピアでも論じてみろ。アホ。
そんなところに噛みつかれてもなあ。ゲームのシナリオだって映画のシナリオだってシナリオなんだから、この場合、ただシナリオとだけ書いてもわかりづらいと思いますが。
地の文よりも会話文が上手いかどうかのほうが気になります。二言三言ですむような場面で冗長なセリフや説明とかが出てくると萎えます。主に日常のシーンで。
「戯曲」と「シナリオ・脚本」といったものを区別する意味はないと思いますね。日本語の定義論でしかない気がします。「最初から上演を想定していない戯曲」というものも存在するので、「文章だけで完結することを目指していないもの」の例として「戯曲」を出したことに反論したかったのかもしれませんが、その場合はシェークスピアを例に出した意味がわかりません。シェークスピアのものはすべて上演を前提とした作品ですから。
失礼します。大学で芝居の戯曲専攻のものです。確かに上のコメントは煽り交じりで不快なものですが、あなたが「エロゲを小説と比べるな」といっておられるように、詳しい分野だと一緒にされることを嫌うものがいます。私も戯曲と脚本は明白に分けられるものであると思っていて、もちろんその定義も自分なりのものがあります。こんなところにかみついて申し訳ありません。ただ、本文の題名とコメントが若干矛盾していたようでしたので、コメントさせていただきました。では。
丁寧なご意見ありがとうございます。「シェイクスピアでも論じてみろ、アホ」とかじゃなくこういう書き方をしてくれればぼくも対応のしようがあるのですけどね。 さて、「戯曲と脚本は明確に分けられる」とのことですが、「戯曲」とは、Yahoo辞書では、「演劇の脚本・台本。人物の会話や独白、ト書きなどを通じて物語を展開する。また、そのような形式で書かれた文学作品。ドラマ。」 とされ、goo辞書では、「劇の上演のために書かれた脚本。また、その形式で書かれた文学作品。台詞(せりふ)に、人物の動作や舞台効果など、演出に関する注意(ト書き)を加えたもの。日本・外国ともに、その形式が確立したのは近代以後であるが、謡曲、あるいは浄瑠璃の丸本(まるほん)や歌舞伎の台帳などもその一種であるといえる。」 とされています。「戯曲」は「脚本」の一種、という定義ですね。 もちろん、専門の方から見れば、不適切な定義なのでしょう。しかし、ぼくが「戯曲」に対し抱いていたイメージもこの程度のものでした。おそらく一般的な認識もそのレベルだと思います。 だから問題ないということにはなりませんが、この記事を書いたときは他に適切な表現を思いつかなかったのです。「以後注意します」ということでお許しいただきたいところです。
文章に頼る度合いを比べると小説>ラノベ>CARNIVALや痕形式のエロゲ>らくえんなど今メジャーな形式のエロゲですよね。ラノベでさえ、挿絵のあるシーン・キャラでは描写量やテンポが変わるはずですから、まして常に挿絵があってBGMや声まであるエロゲでは、通常の小説の文章と比べようがないですよね。今日の読売新聞でも、『縦書きでは気にならない「スニーカー」という言葉も、横書きにすると横棒が多くて平板に見えないか気になりだす』といったことが書いてありました。個人的には、感動などで泣かせる訴求力も、涙を流しているキャラの絵と声とBGMがあるだけで、だいぶ強くなる、それがギャルゲーの「泣き」における優位性を作っている、と思うのですが、どうおもいますか?
すいません、どうでもいいところにつっこんでしまいまして・・・本文自体には賛成です。というか、総合芸術ってそういうものですからね。ノベルゲーしかり、その他のゲームしかり、一分野ごとの見事な化学反応によって効果を何倍も高めるのがこの分野の最大の利点なのですから。その点が、絵画、小説などの個人芸術との明白な差なわけです。むろん個人芸術には個人芸術なりの利点があるわけですが。個人芸術と総合芸術を同等に語るのは、いついかなる時も間違っているのでしょう。
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