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読んとは?/ キャッシュワン

[ 793] 【2ch】ニュー速クオリティ:おまいら何回も読んでる本てありますか
[引用サイト]  http://news4vip.livedoor.biz/archives/51142910.html

まぁほとんど映画化やドラマ化になった作品ばかりだか、原作は原作でまた違う味を出してる。とくに「壬生義士伝」は読みやすいし多分俺が読んだ本の中で一番感動した逸品。歴史が苦手な人でも読んでみて。
♪何度死んでも生き返るとら猫クン,死ぬのなんか平気さ〜って威張っていたとら猫クンが 美しい白猫に恋をします。
夏目漱石の「こころ」舞上王太郎の「煙か土か食い物」村上春樹初期〜中期全般 馳星周「漂流街」大沢在昌 感傷の街角シリーズ 作者忘れた邂逅の森あと聖書。カオスだWW
サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」も良かったなぁ。ドグラマグラ・カラマーゾフ・地下室の手記を読んでみよっと。
中学の頃は志賀直哉の『暗夜行路』・高樹のぶ子の『サザンスコール』『満水子』・石井總互(字が違うかも)の『水の中の八月』あたりが図書館にある最高傑作だと思ってた。まさに中二病。
『ライオンを殺す事が本当の勇気なのか?ヤクーバはライオンを倒しに行くが、そこで出会ったのは…瀕死のライオンだった。』
素朴な疑問なんだけど海外作家の作品って読むには読むんだけどなんか腑に落ちない事が多いのは 僕だけ?アメリカンジョークで笑えないあの感じ。翻訳時点での文化の違いがあるのかね?音楽・絵画・彫刻・映像で感じないから多分そうなんだろうけども。おせーてバイリンガル。
>※128 むしろ聞きたいのだけど純粋な謎だけで1小説を魅力的に完結させられる小説家がいたら神だと思う。昔ある映画監督がいってたけど映画で人間若しくは動物が写ってなかったらそれは映画じゃなく記録だと。指摘している推理小説というモノが一体何を指しているかをまず教えてください。
後は、桜庭一樹の『推定少女』・『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』・『荒野の恋』、村上龍の『コインロッカーベイビーズ』、誼阿古の『クレイジーフラミンゴの秋』、ジョン・クリストファーの『トリポッド』、筒井康隆の『懲戒の部屋』かな。
ホールデンのように世界にバツをつけようとするのではなく、世界にマルをつけようとする主人公に感動した。
村上春樹の翻訳ではないけどジョン・アーヴィングの「ガープの世界」「ホテルニューハンプシャー」はオススメ。
ヴォネガットの「タイタンの妖女」とか「スローターハウス5」とか「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」とか。
31歳になるが、小三の時に初めての小遣いで買ったコロボックル物語はマジで身の回りから離したことない。どれだけ間隔が空いても2年は立たずに読み返してる。
もちろん、いまさら面白いとか思うわけじゃないんだが、読書原体験とでもいうのかね。初恋を振り返るのと同じようなもんだと思うが、何度でも読み返してしまう。
ちなみに、俺が好きなのは、2作目の「まめつぶほどの小さな犬」と4作目の「不思議な目をしたおとこの子」。
三島も惚れこんだ日本語の使い手。ボードレールとかランボーとか意味はさっぱりわからんのだが言葉がこの上なく美しい。ので繰り返し読んでしまう
元にして書き込み(コミュニケーション)できるんだから、ブログ作成者のモチベーションを維持するためにもある程度の収益はあったほうがいいだろうに。
すべてをボランティアの無償奉仕でして欲しいという気持ちを自分で持つのは分かるが、大して大金を稼げるわけでもない個人のアフィリエイトに文句を言って何がしたいのか?月に数千円〜数万円くらいの収入に嫉妬するくらいなら、自分でバイトデモすれば言いし、ネットで稼げると思うならアフィでもやってみればいい(実際には月1万円でも稼ぐのは大変だけど)
なんか現実に飽きた時とか、旅行行きたい気分の時、旅行行く時の車内や機内、RPGとかやりたい時に読む。
あと、マンガだけど『うしおととら』の最終巻。うしおが白面に「おれたちは太陽と一緒に戦っている」(うろ覚えだが)のシーンは読むたびに泣ける。
渋谷のイケメンナンパ師にホイホイ付いて行く女たち ヤリ逃げされる現状 (名無しクオリティ)

 

[ 794] 買ったのに読んでいない本、どれくらいありますか? | エキサイトニュース
[引用サイト]  http://www.excite.co.jp/News/bit/00091204511182.html

読んでいない中で一番気になっているのが、買ってからかるく3年以上は経っている伊坂幸太郎のデビュー作『オーデュボンの祈り』の文庫本。「新潮文庫の新刊」という帯の文句が悲しい……
自分の本棚を見て思った。実は読んでない本が多いじゃないか? と。職業柄、本をもらったり仕事のために買ったりすることも多いけれど、自分が読みたくて買った本でさえ、読んでいないものが多数ある。単行本、文庫本合わせてざっと30冊はあるはず。姉に聞いてみると、「読むために買うから、読んでない本はない。あ、でも歴史もののマンガのシリーズだけ、まだ手をつけてないな」とのことだった。そうそう、シリーズとかで気合いいれて買ったわりに、読むのが億劫になってしまうことってある。私はこれも図星。それにしても、せっかく買ったのに読まないとは、我ながらどういうことか。ここまであると、「仕事におわれて云々」は言い訳にすぎない気も。買ったことで安心してしまうのか?他の人は一体どうなんだろう。気になって、まわりの人たちに聞いてみた。すると、結果的には「買っても読まない本がある」派と「買ったら必ず読む」派はほぼ半々。私と同じように、買ったのに読まないままの本が多数あるという人たちも結構いた。ストック数が私と同じく30冊はあるという人たちの理由としては、やはり、読む気満々で買ったのに、なぜか置き去りになっているといった感じだ。例えば、「評価は本物なのか? と過去の芥川・直木賞を受賞した本を何冊か買ったけどそのままに。いつかやるぞ、と買った英語教材の本や外国のペーパーバック、『ローマ帝国衰亡史』を読むぞー! と全10冊買ったのにやはり読まないまま」や、「そのときは読むつもりなのに、いつの間にかほったらかしとか、なんとなく気分が変わったり、買って満足でやはり30冊ぐらい。あとは少し読んでみたけど、途中で仕事が忙しくなったりして、中断してそのままという本だけでも10冊くらいはありそう」など。納得。他にも「すぐ読むつもりで買うんだけど、やっぱり15冊は読んでない。ちょっと読んでみて内容に入っていけないとストックになりがち……」という人、また「読んでない本が5〜6冊ある」という人は数名いた。中には「まとめ買いして読んでないのは10冊くらい……でも一応、2〜3カ月で読み終わる」と、一時的にだけ、読まない本のストックがあるという人も。逆に「買ったら必ず読む」派の意見としては、当たり前に「すぐ読むために買うから」が大半。自分では職業病的なものがあるのかなとも思っていたのだが、私と同じ職業でも「『読むために買う』派。まとめて買っても、1か月以内に読んでいると思う。やっぱり『読みたい!』と思って楽しみにして買っているからかな」という友人もいた。さらに、「本当に今、読みたい本しか買わない。なんとなく気になる程度の本は図書館や友達に借りたりする」、「一度しか読まないから、もともと本はできるだけ図書館で借りてしまう」という人たちも。たしかに、読むことだけを考えれば、図書館や友だちに借りる方が合理的。私は読むよりも、もはや買うのが目的になっているみたいだ。また、活字中毒気味だという友人は、「読みたくて購入した本はもちろん、手当たり次第読む。家族や友だちが購入した、一見興味なさそうな本でも、手元に本がなければ触手を伸ばす……だから読まれるのを待っている本が列をなしているような人に憧れる」とか。そんな彼女を見習いたいぐらい!私の場合、本=プロダクトとして好きなので、どこか収集的な部分もあるかもしれない。読みたい気持ちももちろんあるけれど、それにまさるものが。とはいえ、「ある本を読むまで新たな本を買わないこと」を心がけて、さっそく何か読んでいこう、そう気持ちを新たにしたのでした……。(田辺 香)
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[ 795] 日常&読んだ本log
[引用サイト]  http://ameblo.jp/tsuna11/

興味を持った記事があったり、あなたが読み終えた本について語っていたら、是非あなたの感想を教えて下さい。お待ちしています。
約三年間、アメブロでやってきましたが、色々と不自由なことが増えてきたので、お引っ越しをしようと思います。
また、現在、fc2のブログお引っ越しツールを使用中のため、デザインなど見難くなっているかと思います。ご容赦くださいませ。
もしかしたら、また出戻ってくるかもしれませんが、引越しする方向で考えています。新しい場所でも、またお付き合いいただければ、と思います。
で、ラテンアメリカと言えば、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(なんか、名前も回文みたいでいいよね)?と思って、くだんの「ラテンアメリカ怪談集」の中の「円環の廃墟」が良く分らなかったくせに、ボルヘスにいってみました。
とはいえ、これはアドルフォ・ビオイ=カサーレスという、これまたアルゼンチンの作家との共作であり、更に探偵小説なんですね。なので、普通に「ボルヘス!」というにはちょっと語弊があるだろうし、私の腰の引け具合もちょっと分かるかも…。
ちなみに、刊行当初、二人の合作者としてのペンネーム、<H・ブストス=ドメック>名で発表されたそうです。
探偵役は、身に覚えのない殺人の罪で、二十一年の懲役刑を受け、獄中生活を続けている、元理髪店店主のイシドロ・パロディ。マテ茶をたて、静かに独房の中で暮らしている彼の元には、最初の事件、「世界を支える十二宮」の時にやって来た、おっちょこちょいの新聞記者、アキレス・モリナリを皮切りに、厄介な事件を抱えた人々が引きもきらない。
依頼人たちは、いずれも大仰な物言いが特徴と言えるでしょう。時には話題は詩や文学までへも広がっていく。たいていは、殺人事件について助けを求めに来ているはずなのに! 自分のことを重要人物であると信じ切っている人々の演説(だって、ほとんどご立派な演説なのだ)を、じっと見、聞いているのが、イシドロ・パロディ。そうして、彼は依頼人たちの膨大な言葉の中から、独房に坐したままで、真実をより出して見せるのだ。
依頼人の出番は一回こっきりというわけではなく、新聞記者モリナリの口コミが次の依頼人を呼び寄せたり、「ゴリアドキンの夜」で登場し、”気取ったところはあるが、そそっかしくて人のいい愛すべき舞台俳優”と紹介されるヘルバシオ・モンテネグロに至っては、”皇女と結婚し、趣味としての犯罪捜査に明け暮れ”たり、”アメリカ大陸友好団体の地方局長”を経て”私立探偵”になってしまっています。どいつもこいつも、イシドロ・パロディの推理を自分の手柄にしてしまうのはなぜなんだ! 冤罪なんだから、刑務所から出してあげてよ〜。
多くの訳注があるにも関わらず、詩や文学、作家については、面白さを与えようという効果が、私には消化し切れなかったなー。アルゼンチンの多様さ、混沌については、なんとなーく雰囲気が理解出来たようにも思うけど。
主人公となる人物の年齢も性別もバラバラだけれど、共通しているのは、長崎を舞台としていること。長崎と言えば、被爆地であるとともに、キリスト教とも縁の深い土地でもある。多くの殉教者を生みながらも、先祖代代、愚直なまでに神を信じてきた、彼らに与えられた運命とは? 蜜のみはちょっと違うけれど、苦しみがまだ足りないとばかりに、なぜ彼等に苛酷な運命が襲うのか。
描かれていることは、結構辛いことが多いのだけれど、穏やかな人々が操る方言のせいか、どこかやさしくもある。どんな辛い出来事が人々を襲おうとも、そこで人生が分断されるわけではなく(分断されるに等しい出来事もあるけれど)、それでも彼らの生活は続いていくし、一歩一歩、家族や支えてくれる人々と共に、生きていくしかないのだよなぁ。
この本のいいところは、本文は上段にあるんだけど、下段に書影と、桜庭さんご自身や、編集のK島氏による簡単な本の紹介が載せられているところ! 何せこの「読書日記」には本がざばざばと贅沢に出てくるので、本の洪水に溺れないためにも、この構成は実にいいねえ。
桜庭さんにとっては、呼吸すること=本を読むことなんじゃないかというくらいに、とにかく、日々、本を読んでおられる。面白い本を読んでは、面白いっ!と叫ぶこの感性、この密度の読書の中で保っておられるのが凄いよなぁ。
桜庭さんが本を読んでないのは、直木賞受賞作でもある「私の男」を書くために音楽漬けになっている時くらい。意識的に本を読まず、自分を追い詰めているこの時期には、桜庭さんはどんどん痩せていってしまうのです(ま、これは「読んでない」せいだけではないとは思うけど)。
以下、本読みとしての心意気に、こちらも感動だった箇所。そうだよねえ、「やさしい」本ばっかり読んでると、自分がどんどん偏っていく気がするのだ。
わたしは普段、本や映画を選ぶときに、人が薦めるものをなるべく入れるようにしている。自分の選択だけだとどうしてもかたよって、その場所がせばまっていってしまう。せばまり続けるとちいさくなって完結して、そうなったら、死ぬ。
帰宅して、なにを読もうかなぁと積み本を眺めていたら、なにか急に、怖くなる。東京に戻ってきたので新刊がいくらでも手に入るのだが、いや、自分の本も出たときは新刊なのだが、新たに出る注目の本ばかり追いかけると、まるで流行りのJ-POPを消費する若者のような心持ちで読んでしまう気がして、手が止まる。
こういうことを繰り返したら、作家も読書も聞き分けがよくに通った、のっぺりした顔になってしまうんじゃないか。みんなで、笑顔でうなずきあいながら、ゆっくりと滅びてしまうんじゃないか。駄目だッ。散らばれッ!もっと孤独になれッ!頑固で狭心で偏屈な横顔を保て!それこそが本を読む人の顔面というものではないか?
死ぬ死ぬ出てきちゃいますが(笑)、この切迫感も桜庭さん独特なのかなぁ。ご自身の小説は、私は「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない
」しか読んだことがないんだけど(そして、あまりの救いのなさに大ダメージを受けた)、桜庭さんの尖りや切迫感が少し理解出来たように思いました。
そして、本読みとしての目は実に確か! 自分が読んだ本については、うんうんとうなずきながら読んじゃうし、凄い本を凄いスピードで読んでるところには驚愕してしまうなぁ。普通、こんな濃い密度で読めないよ〜。凄い本を探すのに、この本はオススメです。
1982年に出版された本書。サンケイ新聞国際編集室と日本道路協会との共著ということなんだけれど、サンケイ新聞国際編集室長の巻頭の言葉によれば、この本はこんな意図で編まれたものらしい。
道には長い歴史が刻み込まれていて、アメリカの高速道路網も、西部開拓時代に切り開かれた駅馬車の道がその原型である。ヨーロッパには、紀元前のシーザーの戦いのあとがそのまま道になっているところも多い。日本も同様で、国道一号線はかつての東海道である。同じようなルーツとルートをたどって現代の道が出来上がったのに、なぜに東西の道に開きが出来てしまったのだろうか?
日本には車輪の文化がなく、狭い土地に山と川があり、道が作りにくかったこと、また狩猟と農耕という民族性の違いも考えられる。けれど、「くるま社会」を迎えた今、過去の歴史によらず、日本においても車の走る事が出来る道路を作らなければならない。ここにアメリカ、ヨーロッパの道を示すことで、日本の道路との違いをくみ取り、日本のこれからの道づくりに役立ててほしい…。
と、まぁ、こんな意図で編まれたらしいのだけれど、それから既に二十年以上の時が過ぎていて、日本の道路も、アメリカ、ヨーロッパの道路も、この本が編まれたときとは、変わってしまっているはずではある。それでも、「車が走る」という目的は同じなのに、国によって違う顔を見せる道路が面白い。アメリカ、ヨーロッパだけと言わず、他の国も見てみたいなぁ。
アメリカのひたすら何もない道、東に向かって広がっていくというアメリカの町(出勤は西に向かい、家路への夕方は東へ車を走らせることが出来るから、いつも太陽を背にして眩しくない)、広い駐車場のある鉄道駅(パーク&ライド。空港ではこれが、パーク&フライトとなる)、廃道と化しても撤去されないままのハイウェーの残骸…。
ローマの石畳の道、車が入れない路地、二千年前に作られ、完全に原形を残し、一部が道路として使用されている、南フランスの水道橋、山の上に張り巡らされたスイスの道路(国民皆兵のスイスでは、山合いの地方道であってすら、戦車や装甲車の走行に耐えるよう頑丈に作られている)…。
車が走る道路だけでなく、自転車道、遊歩道、鉄道についても少し。その他にも、ドライブインや、料金所、防音壁、建設と補修などについても、各国の写真が載せられています。
どんな道を作るべきか、今参考にするとしたら、どこの国なのかなぁ。ひたすら道を追うだけでも、色々な貌が見えて面白かったです。
で、好きかと言うと、実はこれは微妙だなぁ、と思いながら読んでたのだけれど、ラストの「風、檸檬、冬の終わり」は結構好きでした。なので、ラストでちょっと評価を覆された感じ。
身体の一部を主題に語られる異能の話。どれもこれも、死の匂いが強く、一部どうしようもなく陰惨でもある。その辺が、不思議を描いていても、朱川湊人さんなどとは違うところかなぁ。「風、檸檬、冬の終わり」にはまだ希望が見えるけれど、その他の物には、何だかほとんど希望がないのだ(「百焔」のあれは希望と見るべきか?)。
哲彦は疎開先で喬史という少年と仲良くなる。顔の左半分を黒い痣に覆われているものの、喬史の眼は実に美しいものだった。村人は、喬人の痣をスナメリの祟りだと忌み嫌うのだが…。喬人の目に流れる青い光の意味とは?
健康を害し、静養のために厄介になることになった家で、私はマスクで口を隠した愛らしい少女に出会うのだが…。
美しい妹マチといつも比べられる、姉のキミ。キミは幼い頃から、妹が憎くて仕方がなかった…。そんな折、出会った美しいモダンな女性、鶴乃に、キミはあることを教えてもらう。
学生時代の友人、熊埜御堂の快気祝いに招かれた、長谷川。熊埜のたった一つの頼みは出された食事を決して残すな、というものだった。刺身や、鍋の中に入っている、非常に美味な白身の魚。熊埜の話と共に食事も進んでいくのだが…。
マコトの住む田舎に越してきた転校生のタク。タクの父はテレビに出るようなマジシャンだったが、息子であるタクを使った脱出マジックの失敗により、テレビ界から干されてしまう。タクの体には傷が絶えず、周囲の大人は、父親による虐待を心配するのだが…。
私には、嗅覚の異常があった。左右の鼻の穴から感じる匂いが一致しないのだ。いつしか、私は左からする匂いは、他人の感情が発する匂いなのだと理解する。死期が迫った恩人から、漂ってきた匂い。それは、私がただ一度だけ嗅いだ、忘れられない匂い。凛冽とした風、青さの残るレモン、冬の終わりの一時だけ大気に混じる緑と土の気配が混じり合う…。
月面調査隊が真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。すぐさま地球の研究室で綿密な調査が行われた結果、驚くべき事実が明らかになった。死体はどの月面基地の所属でもなく、世界のいかなる人間でもない。ほとんど現代人と同じ生物であるにもかかわらず、五万年以上も前に死んでいたのだ。謎は謎を呼び、一つの疑問が解決すると、何倍もの疑問が生まれてくる。やがて木星の衛星ガニメデで地球のものではない宇宙船の残骸が発見されたが……。ハードSFの新星ジェイムズ・P・ホーガンの話題の出世作。
30代の半ばにして核物理学の権威であり、会社に自分専用のポストを作らせる程に優秀なヴィクター・ハント博士は、ある日、理不尽とも言える指示を受け、自身が設計した画期的な機械と共に、国連宇宙軍(UNSA)が居を構えるヒューストンへと駆り出される。彼を待っていたのは、UNSAの航空通信局(ナヴコム)本部長のグレッグ・コールドウェルと、月面で発見された五万年以上前の死体。
主たる登場人物は、このハントと、コールドウェルに、生物学者のダンチェッカーですかね。あ、あと、”チャーリー”と名付けられた月面の死体。所属していた会社で、ハントとコンビを組んでいた、ロブ・グレイは途中からフェード・アウト。
その全貌は明らかにされないけれど、一本釣りのような手法でハントを駆り出したコールドウェルという人物も気になるなぁ。
二十年以上もの長きにわたって彼は熾烈な闘争を勝ち抜き、宇宙軍最大の機関の長にのし上がったのだ。白兵戦にかけては、彼は百戦錬磨の古強者である。しかも、その間彼は自らの血を一滴たりとも流していない。以前のナヴコムなら、あるいは今回のようなプロジェクトは与り知らぬことだったかもしれない。これはナヴコムの手に余ることかもしれない。その意味では土台UNSAにとって荷が勝ちすぎる仕事かもしれないのだ。それはともかく、現実にコールドウェルは責任者の立場にある。プロジェクトの方からナヴコムの膝元に転げ込んで来たのだ。コールドウェルは自分の手で仕事をし遂げる決心だった。協力の申し出があれば、それは拒まない。しかし、プロジェクトはあくまでもナヴコムの名において推し進めなくてはならない。それが気に食わないと言うなら、この仕事を横取りしてみるがいい。そう、やれるものならやってみろ―。
実際に謎を追うのは、研究者たちであり、ダンチェッカーであり、ハントであるのだけれど、後ろで糸を引くのはあくまでコールドウェルなんだよね。何故に、彼はこんなタフさを身につけたのでしょう? というか、リーダーってこういうものなのかもしれないけど。まさに適材適所に、ぴたぴたと人を嵌めていく手腕が見事。
最初はどうしようもない堅物に見えたダンチェッカーは、ラストにやってくれます。いいねえ、かっこいいねえ。途中から、ファーストネームのクリスで呼ばれるようになるし、ただの堅物ではありませんでした。
ハントに関しては、ただただ先へ、未知の世界へと突き進んでいく、その生きざまが興味深い。以下は、有毒ガスがたちこめる、荒涼とした木星の衛星、ガニメデでの彼の独白です。
彼は生涯、一度も立ち止まることなく歩み続けて来た。そして、彼は常にそれ以前の自分から未知の自分へ変貌する過程を生きていた。新しい世界に立つと、必ずその向うからさらに別の世界が彼を差し招いた。どこへ行っても周囲は知らない顔だらけだった。見知らぬ顔は、ちょうど前方の靄の中から浮かび上がってくる岩の影のように、彼の傍を流れて消えて行った。岩と同じように、人々は一瞬、紛れもなくそこにいるかに見えながら、やがて幻のように背後の闇に吸いこまれた。
そうして、彼らが辿り着いた真実とは…。タイトル「星を継ぐもの」の意味とは…。とっても大胆な説なんだけど、ぐっときちゃうな。特にダンチェッカーが語る、”ルナリアン”(月世界人)たちの最後の様子や、”人類”というものの希望には。
しかし、実際、これ一冊を読んでも、プロローグにおける謎や、ガニメアンと名付けられた”巨人”の謎は解けないんですねー。今後、どういう風に謎を解いてくれるのか、楽しみです。
表紙絵を見ても、恐竜が主人公である事が丸分かりなんだけど、今度の主人公は恐竜キンタグリオの少年、アフサン。まだ年若い田舎の少年であるアフサンは、帝都に上り、見習い占星師として、頭の固い宮廷占星師のタク=サリードに仕えていた。
さて、恐竜であるキンタグリオ一族には、当然ながら野性としての様々な本能がある。しかし、彼らは宗教と理性の力で、それらの本能を抑え込み、世襲制の国王のもと、中世ヨーロッパ的な文明社会を築いていた。キンタグリオの社会の中では、その個体が大人になるために、狩猟と巡礼という二つの通過儀礼が定められている。
狩猟は憎悪と暴力の衝動を一掃するための儀式であり、特別な仲間意識を共有することが出来る。消すことのできぬ縄張り意識を持つキンタグリオが、友情と協調によって一つになる事が出来るのだ。巡礼は、彼らが住む大地を離れて大河へ漕ぎ出し、かつて予言者ラースクが発見したという<神の顔>を詣でる儀式。この二つの儀式を通過することで、そのキンタグリオの魂は来世で救われるのだ。
さて、ダイボ王子と共に、ダシェター号に乗って巡礼の旅に出たアフサンは、遠見鏡を使って天体を観察するうち、驚くべき発見をする。それは、キンタグリオたちが作り上げてきた社会通念を、真っ向から否定するものであった…。
この発見を黙っているべきか、更に仮説を深めるべきか? 偶然現れた巨大川蛇、カル=タ=グードへの、ヴァー=キーニア船長の執着から、アフサンは船をそのまま同じ方向へと進めることに成功し、この世界が水で覆われた球体であることを発見する!
実は本国ではキンタグリオ三部作として、残り二作が出ているらしいのだけれど、残念ながら日本では未訳。なので、最後の方は、もうページ無くなっちゃうよ〜、と思いながら読んでたんだけど、やっぱり、ええ!そこで終わっちゃうの?!という終わり方なのでした…。いや、一応、これ一冊でも完結はしているのだけれど、「序章」という雰囲気も強いんだよなぁ。
最初の頃のアフサンは、まさに田舎から出てきたばかりの少年なんだけど、様々な出来事を経てアフサンは成長していく。自らの力で真実を探り当て、その真実のために戦い、そして尊敬出来るパートナーとも出会って恋をし…。真実を伝えることは、時に大変な難しさを含んでしまう。特に、それが誰かが信ずるものを否定することになってしまう場合には。しかし、キンタグリオ全体の危機をも予知することになってしまったアフサンは、真実を伝えることに躊躇はしなかった。その代償は非常に大きなものになってしまったけれど…。
うーん、ここから先のアフサンについても知りたいなぁ。続編では、アフサンの息子やアフサン自身も活躍するそうなのだもの。キンタグリオの習性なども面白かったです。野性的な狩猟の場面や、縄張り意識の話がある一方、そういうのが向かない体型なのに、寝板に寝そべって本を読んだり、書きつけをしたり(尻尾があるので、仰向けにもなれないし、ぺたんと座るにも不具合があるのかな)、 理性的であろうと礼儀正しいところには、なんだか健気な愛らしさを感じてしまいました。
表紙には、石黒亜矢子氏、小畑健氏の名前もありまして、お二方は、それぞれ一枚の絵のみで参加(石黒氏:京極堂、小畑氏:榎木津)ということだと思いますが、「デスノ」の小畑氏、流石の美しさであります。白黒なんだけど、これ、カラーで見たかった!
京極堂シリーズは、蘊蓄の京極堂、破壊(でもないかしらん?)の榎木津、崩壊の関口、軽薄の益田、忠誠の和寅など(あ、木場の旦那を忘れちゃった)、立ちまくったキャラに、独特の「憑物落し」の世界観が特徴だけれど、これをそのままなぞっただけでは、そりゃー本歌の方が面白いのは当たり前。ちょっと違ったアプローチをしていたものの方が、面白かったです。
京極堂へと至る眩暈坂で、中禅寺敦子は様子のおかしい女性に出会う。比良時子と名乗る女性を、敦子は京極堂へと連れて行き、兄嫁の千鶴子に介抱を頼むのだが…。
傑作と名高い「バッテリー」を読まずして語るのもあれなんですが、あさのあつこさん、「福音の少年」(どのへんが「福音」なんだかさっぱり分らず)がダメで、それ以来あまり良い印象を持っていません。で、この「鬼娘」は京極堂の世界をなぞっちゃったもので、あまり工夫が見られませんでした。
一族の中でも変わり者扱いされていた祖父。その祖父から届いた、亡くなる直前に書かれた「懺悔」の手紙の内容とは?
」シリーズの西尾さん。世界観はそのままだとは思うんだけど、あの人を出してきたところが巧かったです。これは、本家にほんとにありそうだもの。
映画監督描くところのお話のようだけれど、これは読み通すことが出来ずに、途中でぶん投げました。こういう作中作みたいなのって、よっぽどうまくないと、どうも読めません…。
記憶の地獄を彷徨う「関口」。みな、同じように年老いた。彼の病室を訪れるのは、今では車椅子を操る京極堂。彼の姿は車椅子に座った黒衣の死神のよう…。
これは、面白かったです。オチのある一点が気に入らない(というか、個人的感情としてイヤ)のだけれど、そうそう、トリビュートというのならこういうお話でしょう、という巧さ。
京亭三茶久なる落語家が語る死神の話。上方でもないのに、「京亭」を名乗るこの一門。実は初代の師匠が、箱根の旅館、仙石楼で出会った京極堂に心酔し、「京」の一字を貰ったのだという。さて、そんな経緯ゆえか、「京亭」一門は、一応憑物落しの一門でもあるというのだが。死神に自分を落とす様に頼まれた三茶久は、さて…。
ほとんど京極堂には関係ないけど(だって、一字を貰ったって、ねえ?笑)、これは面白かったなぁ。落語だし、いい感じの軽みが出てます。
これは楽しかったな〜。松苗さんの絵で、京極堂や榎木津が見られるだけでも楽しいんだけど(エノさん、私のイメージだと、もちっと線が細いけれども)、猫が!猫が!
お金持ちの家から脱走した、エジプトから取り寄せたという、美しく、凶暴で高貴な猫(野生のリビアヤマネコ)。そのお嬢様が京極堂に良く本を頼む関係で、京極堂のもとへも、女中が猫を探しに来るのだが…。実はその女中には、猫が人間の男の姿に見えていて、というお話。美しく、凶暴で、高貴な男といったら、ねえ? 和寅と益田の絵も好きー。石榴は割とぶちゃいくな猫になってました…(私の中では、割と美猫のイメージだったんですが)。
百鬼夜行が百物語! その一話、「書き損じのある妖怪絵巻」が主に語られ、百話語り終わった後のオチは勿論、というやつです。
私は図書館で借りたからいいんですが、どうなんだろう、これで1200円。高いとみるか、安いとみるか? 松苗さんのが、もっといっぱい載ってたら、高くはないような気がするけど、今の構成だとちと微妙かな。
と、それは置いておいて、本の話にもどります。「ラグーナ/LAGUNA」は副題に「もうひとつのヴェネツィア」とあるのだけれど、ヴェネツィアではなく、その周辺のラグーナの佇まいを写したもの。
」のマルコが住んでいたような辺りなのかな。この風景は、昔からあんまり変わっていないんじゃないかなぁ、と思いました。
もう一冊の、「アックア・アルタ」はヴェネツィアの高潮を写したもの。風景が主だった「ラグーナ/LAGUNA」とは異なり、こちらではほとんどすべての写真に人物が写り込んでいます。膝や腰辺りまで水につかりながらも、なぜか楽しげな人々の表情が印象的です。「あとがき」から引くと、ヴェネツィアでは晩秋から春にかけての大潮の時期に、シロッコ(アフリカ大陸からの南風)に雨という気象条件が重なると、潮位が異常に高くなり、街のあちこちが冠水する高潮に見舞われるのだとか。そういえば、私がヴェネツィアに行った時も、朝方は思いっきり冠水していたのを覚えているのだけれど、あれも晩秋のことでした。
河名木さんの写真略歴を見ると、「1947年 東京・深川の運河沿いに生まれる。」、「1973年 初渡欧。約一年間を各地で過ごし、特にかつての深川の運河の様子を彷彿とさせるヴェネツィアに魅了される。」とある。日本にも、かつては豊かな水の世界が隣にある、そんな世界があったのだよね。運河とかお堀とか、やっぱりいいよなぁ。
写真で見てもやっぱりヴェネツィアって不思議な街だなぁ、と思うんだけど、それを知るためにはやっぱり早いとこ読むべきだよなぁ。

 

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